あなたはもう、すでにだれかの力になっている。

    なにかに取り組んでいる自分を見つめてみたときに、「役に立ちたい!」「役に立たなきゃ!」という思いが原動力になっていませんか?

    少なくとも、わたしはそうだったので、もし同じようなかたがいれば、ぜひ読んでほしです。

    目次

    「役にたたなければ、ここにいてはいけない」?

    「だれかの役に立ちたい」と思う気持ちは、人間としてとても自然な感情。
    人は群れの中で生きる生き物なので、自分の行動がだれかのためになったと感じられると、自信や存在感、安心感を得ます。

    でも、それが「役に立たなければならない」という強迫的なものとして自分の言動の動機になると、これは苦しい。

    「役に立たない自分には価値がない」と自分を監視し続けることになるので、とてもつらいし、長続きしません。

    言い換えると、「役に立たないと、ここにいられない」と感じていると言えます。だから人の顔色が気になるし、だれかからの評価の言葉がないと、自分の存在の不確かさに不安になる。

    さらに言えば、少し言いにくいのですが、この価値観を採用しているということは、自分だけでなく他者もそのように見ている可能性があるとも言えます

    ”自分のモノサシ”で他者を見て「あの人は役に立ってない」と測っていないですか。

    恥ずかしいですが、わたしはそういう”モノサシ”で、自分だけでなく周りもそのように見てきたのだろうと思っています。



    長年わたしは「役に立たないと、ここにいられない」という気持ちをコミュニティに入るたびに感じて、自分の不完全さや「要らない」と言われる”怖さ”にいつも不安を抱えてきました。

    心理療法でも何度も取り上げられ、自分の生活のなかで考え続けてきた、大きなテーマのひとつです。



    少しずつそこから脱しつつあったこの頃、ふいにその根っこを揺さぶられるような出来事がありました。

    「考えるきっかけをくれて、ありがとう」

    先日、仕事でお客さまへの担当交代の挨拶に訪問したときのことです。

    その方とは、わたしが新人営業の頃に新規開拓でつながったところから関係性が始まりました。プロジェクトなどもご一緒させていただき、本当にお世話になったお客さまでした。

    その日、お客さまから言われた言葉。



    「考えるきっかけをくれて、ありがとう」




    その言葉を聞いて、胸が熱くなりました。


    わたしは営業として、自社の商品を売ることを目的にアプローチしてきました。もちろん、それが相手の課題の解決につながることを願って。でも、物事はそんな一朝一夕に良くなったり、簡単に成果が出たりするものでもありません。

    短期間で目にみえる成果を感じてもらえなかったのではないかと思っていたわたしは、「せっかく買ってもらったのに、相手の望む結果に導けなかった」と、自分の力不足と申し訳なさしか感じていませんでした。



    ところが、お客さまにとっては、わたしがアプローチしご一緒したことで、自分たちが自身の課題に気づき、考え始めるきっかけになったということがとても大きかったようで、「それがあったから、今がある」と受けとめていらっしゃるようでした。


    それは、わたしが思っていた“成果”とはまったく違う種類の「役に立つ」でした。



    さらに、「いつも丁寧で明るい対応に元気をもらっていた」とも言われました。
    「そんなこと、大したことじゃない」と、思ってしまいます。
    でも、相手にとっては、それは大切なことだった。



    わたしは相手の期待する結果を出せなかったのではないか、ということしか考えていませんでした。

    でも、単に「成果」や「結果」ではないところだったり、わたしという存在だったりが、相手にとって「縁があってよかった」と思ってもらえることにつながっていたんだということを知り、軽い衝撃とあたたかい気持ちを抱きました。

    「役に立つ」って?

    この体験で、これまでセラピストと何度も話してきたテーマが大きく揺さぶられました。



    仕事とは、なにかに困っていたり求めていたりする人の役に立ち、対価をいただくこと。そう考えると、「役に立つこと」は「仕事」というものの前提のように思えますし、そうだとも思います。

    でも、相手が受け取る「価値」は、必ずしも目に見える成果だけではないのかもしれない、というのが今回の気づきのひとつでした。

    もちろん、課題は解決したい。でもその1点しか見ていない、というわけでもない。「考えるきっかけをくれた」「一緒に考えてくれた」「安心できた」「元気が出た」——そうしたものも、どうやら「価値」として捉えられているようなのです。

    人や、状況、関係性によると思います。
    だからこそ、必ずしも「(課題が解決する、)だったらなんでもいい」というわけでもない、ということです。


    もう一つの気づきは、「相手の課題は、相手のものだ」ということです。アドラー心理学で言う「課題の分離」にも通じると感じました。

    わたしはずっと、「相手の課題を自分が(自分の商材で)解決しなければならない」と思っていました。モノやサービスを売るというのは、そういうことなんだ、と。もちろん、仕事に向き合う姿勢として、間違っているとは思いません。

    でも、本来その課題は相手のものであり、わたしはあくまでその過程を支える存在。近くにいる者として「できること」もあれば「できないこと」もありますし、そもそも「やるべきこと」と「やらない”ほうがいいこと”」というのもある。


    今回の「考えるきっかけをくれてありがとう」というお客さまの言葉からは、「課題は、わたしたちのものです」という、なにか凛としたものを感じました。


    だから、大事なのは、「無責任になる」のではなく、「相手の課題を相手のものとして尊重しながら、できる限りを尽くす」こと。


    この視点は、わたしにはかなり大きなインパクトがありました。

    もう、だれかに届いている

    こうして考えると、ブログを書くことも同じだと思いました。

    自分が書いていることは、読む人にとって、すぐに問題が解決するような内容ではないかもしれません。でも、なにかしら心に響く「種」のようなものは届けられるかもしれない。



    大前提として、「存在の価値」と「役に立つ/立たない」は全然異なる次元にあるものだと思っています。でもそれがなぜか同じラインの上に置かれているように感じてしまうというのは、不思議なようにも思います。

    存在していること自体の揺るがない価値というのはありながら、他方で、人の役に立つことでなぜか自分が少し生きている感じを得られるというのもまた、人間らしいと言えばそういうことなのかもしれません。

    「だれかの役に立ちたい」というシンプルな気持ちはこれからも大切にしながら、それは実は自分の思ってもみないかたちでもう実現されている、「もうすでにだれかの役に立っている」というのを信じてみてもいい、とも思っています。




    もしも、「役に立たなければ」と思い詰めている人がいたら。

    「きっともう、あなたはだれかの力になっています。そのままで、だいじょうぶです。」

    と、伝えたいです。

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