生きる意味──わたしたちはどこまでも、「途上」にある

    秋の虫の声を聞きながら、今日はこのテーマで書いてみます。

    わたしはかれこれ15年近く、「生きる意味」を探し続けてきました。
    仕事の中に見い出そうとしたり、人に愛されることで確かめようとしたり、夢や目標の達成に一生懸命になることで見つかると思ってみたり。

    でも結局、明確な答えにはたどり着けませんでした。

    「『生きる意味』なんてない」と言う人もいます。そうだとも思いますし、その言葉に救われたこともあります。でもやっぱり、「なぜ生きているのか」を考えずにはいられませんでした。

    「いますぐしにたい」と思うほどのしんどさからは、数年かけて抜け出してきましたが、「生きる意味」を問わずにただまっすぐ今日も明日も生きていけるほど、「生きる」ことへの地盤は固くない。

    そんななかで、この夏から秋にかけて読んだ2冊の本が、わたしのなかでようやく「生きる意味」のひとつの答えのカタチとして腑に落ちつつあります。

    今日は、その気づきをシェアしたいと思います。

    目次

    1冊目『夜と霧』──苦しみにも意味がある

    ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。
    以前こちらの記事でも触れました。

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    この本のなかで、彼は「生きる意味」について、こう語ります。

    仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではない……そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ(p112)

    こうも述べています。

    およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう(p113)



    強制収容所の収容者の多くは「ここで生き延びることができるか」という問いに心を悩ませ、「もし生き延びられないなら、この苦しみに意味はない」と考えていました。

    しかし、フランクルは真逆の問いを立てます。

    わたしの心をさいなんでいたのは、……わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない(p113)


    自分たちの求める「結果」(収容所生活を生き延びて外の世界に出ること)のために「今」があり、その結果が達成されなければ「今(のこの苦しい状況に耐えること)」には意味がない、というのが、多くの被収容者の考えです。

    それにたいしてフランクルは、「『結果』のために『今』がある」という考え方をしていません。

    今を「今」として生きること。それは自分の望んだ活躍や喜びを享受するかたちではないかもしれない。それが苦しみだとしても、それはまぎれもなく「生きている」ということであり、「意味がある」。そう述べています。

    ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない……

    ……もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ……

    ……生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(p129)



    わたしたちは、人生のどんな瞬間も、「『どう向き合うか』を自分で選ぶ」ということを求められています。

    その選択の連続こそが、「生きる」という行為であり、そこにすでに意味がある。

    そうフランクルは言っているのだと、わたしは受け取りました。

    2冊目『だれのための仕事』──限界とともに働く



    もう一冊は、鷲田清一の『だれのための仕事──労働vs余暇を超えて』です。

    仕事というものを考えるときに、「仕事/遊び」「労働/余暇」という二分法ではどうしても捉えきれない現実があります。この本では、経済学や思想史などをふまえて労働観の変遷をたどりながら、「生きること」を支えるものはなにか、働くことと遊ぶことはどう結びついているのかを探っています。

    フランスの哲学者ガブリエル・マルセルの「人間は、自分という存在を超えていこうとする生き物だ」という考えを引用し、鷲田は次のように述べています。


    「ひとである」というのはsursum、つまりは「途上にある」ということである……(略)……何かを実現するという、あらかじめ目的地が明確に設定されている、そういうパック旅行ではなく、つねに別の場所への移行状態にある、何かに向かっているという感触が、仕事に充実感やときめきをあたえる……(略)……いまのじぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚が、ここでは重要である。そして、そういう感覚のなかでは目標点ではなく、通りすぎる風景の一つ一つが、廻り道や道草もが、意味をもつことになるはずである。(p160)


    そして、仕事についてこのように述べています。

    ……じぶんの「目的」ではなく「限界」にこそ向き合うことになるのが、仕事だということになる。もっと器用であれば、もう一つ身体があればもっと効率的に作業ができるのに…という身体的な条件でもいい。他人の力を借りないと何もできない…という社会的な条件でもいい。そういうひととしての「限界」をひしひしと感じながら、それでもひととしてしなければならないことをしているという感覚がもてたとき、わたしたちは働いているという実感に満たされることになるのだろう。

    ひととしての「限界」に向きあい、それと格闘すること、そこに仕事の意味がある……(略)……仕事をじぶんの可能性のほうからではなくじぶんの限界のほうから考えてみることは、仕事の意味をじぶんのほうからではなくその仕事がかかわる他人のほうからも考えてみることとともに、仕事について別のイメージを得るためにはとてもたいせつなことである。(p171)


    自分の限界を目の当たりにしながら、いろんな意味で完全じゃない・十分じゃないのがわたしたち人間。でも、ときに他者の力を借りながら、それでもなお、自分のやるべきことに向き合い、引き受け続けていく。それが「働くこと」なのであり、そこに「働くことの充実感」が生まれる。


    わたしたちは、「なにかを達成するために働く」と考えがちです。

    でも、達成できない現実や自分の限界を感じつつも、それでもなお続けること。そこにこそ、仕事の本質がある、と鷲田は言います。

    「いま、この瞬間」にこそ、意味がある


    フランクルの『夜と霧』、そして鷲田の『だれのための仕事』。
    まったく異なる分野の本、異なる経緯で出会った本なのに、わたしのなかではなぜかこの2冊が「同じことを言っている!」と感じました。

    フランクルは「(結果として)収容所を出られなければ、今の苦しみには意味がない」のではなく、「結果的に収容所を出られるかどうかにかかわらず、今の苦しみそのものに意味がある」と言いました。

    鷲田は「(結果として)めざしたことを達成できなければ、仕事には意味がない」のではなく、「限界があるということに向き合いながら続けていくことに意味がある(それが仕事というものである)」と述べました。

    つまり、「目的や目標の達成のために『今』がある」とか「『今』は目的や目標のための”準備期間”である」という、そういう発想ではなく、『今この瞬間』にこそ、意味があるということ。

    どちらの本も、そういうことを伝えている、と受け取りました。



    正直、苦しみの渦中にいるときに、この言葉や考え方がすぐに心に届くとはわたしには言い切れません。

    「いやいや、意味があるなんて言われても、ただつらいし!終わり見えないし!どうしたらいいかもわからんし!」って思います。

    わたし自身、身体を傷つけていたころの自分にこの話をしても、きっと「言おうとしてることはわかるけど、無理」と返されて終わるかもな、と思います。


    でも、それも含めて、今「生きる意味を見つけたい」と悩んでいるその瞬間・時間こそが、「生きている」ということ
    「力不足だ」と感じながらもその仕事をしていることこそが、「働いている」ということ

    「それ自体に意味がある」、そういうことなんだろうと思うのです。

    「途上」であることを生きる



    フランクルは、「人間には『選ぶ』という自由と義務が与えられている。その選択をすること、選択に向き合うことが生きることである」と言っています。

    鷲田は、「人間とはつねに自分を超えようとする存在であり、仕事は自分の限界に向き合っていくものである」と言っています。


    そう考えると、あらためて「途上」という言葉がすごく響いてきます。



    わたしたちは、その生を終えるまで、「途上」にある。



    そうだとすると、わたしたちは、

    「なにかができなかった」と言って、自分を責めなくていい。
    「自分には力がない」と言って、あきらめなくていい。
    「わたしなんて」と、思う必要もない。



    どうせ、わたしたちは「途上」にいるんです。






    達成することもあるだろうし、しないことも、同じくらいかそれ以上にある。
    それが、人として生きるということの「デフォルト」

    そう思うと、少しだけ楽になりませんか。





    わたしは繊細ではないですが多少敏感ではあるので、少し外を歩く、なにかを見聞きする、人と話をする、そんな少しの刺激で自分のなかに感情や考えがどんどんよぎります。そうして、いろんなものが頭のなかでプチプチつながってまた感情や考えが生まれる。

    きっとそれにも意味があって、それらをこうやって書いていくということもまた、なにかを成しとげるとか目標達成とかそういうためではなく、「いま、ここを生きている」証として「アリ」なんじゃないか、と思えました。


    目の前のつらいことにどうしても心を奪われることも多いですが、もしこの文章が、ほんの少しでもそこから離れるひとつのきっかけになったら、とても嬉しいです。

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