この記事は、「自分の身体を自ら傷つける」という行為について、家族や友人など身近な人がそのような状態にあって、どう関わればいいのかわからない──そんな人に向けて書いています。
少しデリケートな内容を含みます。
もし読んでいてつらくなったら、どうか無理をせず読むのをやめてください。
また、ここで書くのは医学的な知見ではなく、あくまでわたし自身の経験にもとづくものです。ですので、誰にでも当てはまる話ではありません。その前提で読んでもらえたらうれしいです。
わたしのことを少しだけ
かつて、わたしは自分の身体を傷つけていました。
15歳のころに始まり、大学時代にはストレスの発散手段になりました。社会人になると日常化し、24〜27歳ごろがもっともひどかった時期です。28、9歳でようやく収束しました。
おおよそ10年ほど、その行為とともに生きてきたことになります。
今ではそこから数年が経ち、ほとんどそうした衝動も行為もなくなりました。
なんで、なんのために

「なぜ自分を傷つけるの?」
そう思う人がいるのは当然です。意味不明ですよね…… 今のわたしも、傷つけたい衝動に駆られることはほとんどないので、そう感じる人の気持ちがよくわかります。
でも、当時の自分にとって、それは「“唯一”の手段」に思えていた、というのが正直なところ。そうでもしないと、日々を生きていくことができませんでした。
わたしの場合、身体を傷つけたくなるのは、こんなときでした。
- 恥ずかしさや自己嫌悪を感じたとき
- 自分を罰したいと思ったとき
- 猛烈な怒りをどこに向ければいいかわからないとき
- 不安や悲しみをまぎらわせたいとき
- 「もう生きたくない」と思ったとき
こういった感情が湧いてきたとき、自分の身体を傷つけることで発散させていました。
日常の中で、あるいは他者とのかかわりの中で感じる感情について、その場で出せなかったり、そのときは自分自身で気づかないうちにおそらく抑圧していた感情が、一人になったときに湧いてきて爆発してしまいます。
一言で言えば、自分にとって「傷」となっていること、痛かったことを、心で抱えておくことができないので、それを身体に“見えるかたち”として出さざるをえなかった、という感じです。
泣きまくって、傷つけていると、なぜだか落ち着いてきます。詳しいことは知らないのですが、どうやら行為によって脳内に快楽物質が出るらしい。それを脳が覚えてクセになる。つまり、「依存」状態です。
わたしも完全に依存状態でした。だから、「やめたい」と思うことはまったくありませんでした。
なぜなら、それは自分を守るための「”唯一“の手段」だったからです。それを奪われたら、もう生きていけない──そのくらい切迫感のあるものでした。
だから、「そんなことやめなさい」という言葉が、当事者にとってどれほど意味を持たず、むしろ相手を追い詰めるか、というのがよく分かります。
周りの人の反応

では、もし身近な人がそのような行為をしていたら、どうすればいいのか。
わたし自身も、当事者の立場であるのと同時に、「周りの人」の立場を経験したことがあります。そのとき、やっぱりすごく戸惑ったし、難しいと思いました。
「声をかけたほうがいいのか」
「黙って見守るべきなのか」
「下手に心の傷に触れて相手を刺激したくない…」
考えれば考えるほど、なにが正解かわからない。
わたしの場合はどうするかというと、ひとまず当事者としての経験をもとに、これまで自分がされてつらかったこと、ありがたかったことをできるだけ参照して対応しようとします。
ただ、それもあくまで自分の事例。他の人にあてはまるかもわからないし、「”誰に””どのように”声をかけられるのか」、つまり、関係性や状況によっても、まったく異なると思います。
結局、「わからないなりに相手を思うこと」しかできない。
そして、その思いが相手に少しでも伝わることを願う
──それに尽きてしまうのではないか、と思います。
ですので、具体的な”方法”という意味では無数にあると思うのですが、これまでわたしが他の人との関係性において「つらかったこと」「ありがたかったこと」を例としていくつかあげたいと思います。
つらかったこと
- 「まだそんなことしてるの?」と親に言われた
- 「(今も)やってるの?」と職場の人に訊かれた
- 関係性が浅い人から「それ、自分でやったんでしょ?」と言われた
ありがたかったこと
- 「自分に話せなくても友達とかだれかに(つらい気持ちを)話せてる?」と親が言ってくれた
- 友人が「痛かったね」と言って、傷の手当てをしてくれた
- 友人が何も言わず、ただそっと傷に手を当ててくれた
- 友人や職場の人が、「どうしたの?」と話を聴いてくれた
- 職場で傷が見えない服装を上司が一緒に考えてくれた(接客業)
- 友人や職場の人が、いつも通りの付き合いを続けてくれた
おそらく
- 自分のことを大事に思ってくれている
- 自分がこういう行為をしているかどうかではなく、「わたし」として見て、付き合ってくれている
そう感じられたときに、気持ちががゆるみ、ありがたく思ったのだと思います。
依存から抜けられた理由

収束のきっかけは、心理療法とギターでした。
ギターを始めて1年、心理療法を始めて半年ほど経ったある日、自分のなかにこんな問いがたちました。
「『今、自分を傷つけてギターが弾けなくなる未来』と、
『痛みを心に抱えたまま、ギターを弾く未来』、
どっちがいい?」
そのとき初めて自分の意思で「やめよう」と思いました。
それだけ自分にとってギターが重要なものになりつつありましたが、それは“依存の対象”が”ギターになった、と言うことができるように思います。
身体を傷つける行為への依存というのは、わたしの場合、それは「他者との人間関係への依存」という側面がありました。だから、「人」ではなく、ギターという「モノ」、しかもモノはモノでも自分を痛めつけるモノではなく健やかなモノに依存先を変えることができた。
それがわたしの場合は大きな転換点だったと思っています。
もちろん、すぐに完全にやめられたわけではありませんでしたが、以前のようにそれに「頼る」ということは、少しずつ減っていきました。
正解はないけど、あなた自身も大事にしてほしい

ここまで読んでくださったということは、ご自身の大切な人のことを本気で思っていらっしゃるということのなのだと思います。とくに関係性が近いほどどう接したらいいかわからないし、自分なりに考えてみたところで、結果的に相手を傷つけることもあります。
あくまで自分の経験からの考えになりますが、その行為をやめるかやめないかは、「本人の意思」で決まるもの、だと思っています。
どれほど心配していることを伝えても、怒っても、説得しても、外側から“やめさせる”ことはできない。
なぜなら、それは本人にとって「生きるための”唯一の”手段」だからです。それを奪われたりその行為を否定されるようなことを言われると、「必死に自分が生きようとしていることを否定されている」という気持ちになるのです。
だから、もしその行為を「やめさせたい」と思うときには、
「その気持ちが本当に相手のことを思っているのか、自分の不安やふがいなさを見たくないだけなのか」
と、一度、立ちどまって自分自身を見つめてみるのがいいと思っています。
もし自分自身に余裕がなかったりしんどさを感じているようであれば、無理に相手のためになろうとしなくていい。それはとても重要なことだと、わたしは思います。
どのみち絶対の正解はありません。わたしたちの声かけや行動が相手にとってどうであるかは、相手がどう受け取るか次第です。その人との関係性がどのように結ばれているのか、にも拠ります。
だから、わたしたちにできるのは、
- 相手のことを思いながら、わからないなりに関わること
- それをどう受け取るかは相手に委ねること
- 相手のなかにある「生きる力」を信じること
- 自分自身が壊れないように自分を大切にすること
どれもこれも不確実な印象のものにはなってしまうのですが、自分のできることの「限界」を受け入れつつ、それでも大切な人のしあわせを心から願う。
それが、わたしたちにできるかかわり方かな、と思っています。
