影舞の体験

    この間、「影舞(かげまい)」というものを初めて体験しました。

    わたしにとってとても興味深い体験だったのと、わたしの人生のテーマでありこのブログのテーマでもある「真に自分の人生を生き、真にひととともに生きる」というところに大きく関係すると思った出来事だったので、書いてみようと思います。

    目次

    「影舞」とは?

    これがけっこう説明するのが難しいのです(笑)

    やっていることとしては、

    2人の人が向かい合い指先を触れ合わせておくところから始まり、その後、身体のどこか一点(指先でもそれ以外でもOK)がずっと接し続けた状態で、音楽の鳴っている一定時間2人で動き続ける

    というものです。

    身体の一部が接しているという制約だけ設けて、それ以外は思いおもいに身体を動かす。

    それを「舞」と位置づけて、「舞台」で踊り、観る人は「観客席」でその2人の「舞」を観ます。





    わたしが今回、影舞に出会った経緯を簡単にお話します。

    仕事や働くことを含めた生きることについて考えるときに、学生のころからずっと指針というか参考にしていた本がありました。

    西村佳哲さんというデザイナーの方がおられます。

    この方、デザイナーとして独立をされる際に、「周りの人はどのように働いているんだろう」ということをインタビューして回って、それを本にされました。そこから「働き方研究家」という肩書きで、インタビューやワークショップの開催、ファシリテーターなどとして活動されていらっしゃいます。

    西村さんの本とそのインタビュー集を学生のときに読んで、「こんなふうに働いている人たちがいるんだ」と衝撃を受けたのと、西村さんの眼差しや語り口がわたしにとってはとても違和感がなく、それ以降も、仕事や生き方に不安が出てくると、また西村さんの本に頼って……ということを続けてきました。

    今月、西村さんの『一緒に冒険する』(弘文堂、2018年)という本を読んでいたところ、そこにとある方のインタビューが載っていました。



    その方はカウンセラーをされていらっしゃったのですが、「ひとの話を聴く」「ひととひとのかかわり合い」ということを本質的に考えていかれるなかで、それをお仲間とともに「芸」というかたちで全国行脚しながら実践する取り組みをされているというお話でした。

    インタビューの中では「円坐」というものの話が出ていました。

    そこにいる人たちが輪になって座り、だれからともなく話し始める。その人の話を、そこにいる人たちみんなで聞いて、その人の話を、世界を理解しようとする。おそらくそこに、そんなルールも決まりもあるものではないと思うのですが、そうやって「聴く」ということを真剣に行い、学び、体得する場を「芸」と位置づけて実施していらっしゃるということでした。

    円坐の話も含めて、その方がインタビューで話されていることがすごく興味深いし響くところがあって、「なんだこれは!!!」と思って検索したところ、1週間後にわたしの住んでいる地域から近いところで実施されるということだったので、「初めてなんですけどいいですか?」とご連絡して、行ってきました。


    色々なシリーズで実施をされていて、実はわたしが申し込んだのは、円坐ではなく、「影舞(かげまい)」という異なるものだったということを、行ってみて知りました。

    感想

    「影舞がなんの目的のものなのか?」と言われると、まだ端的に「これのためのもの」とか、「これをやるとこうなる(効能がある)」というのが、残念ながら説明できません。

    気になる方は、『一緒に冒険する』で話をされていた橋本久仁彦さん率いる「有無ノ一座」さんのHPを見てみてください。わたしが今回参加した影舞の案内ページです。

    有無ノ一坐
    第24期影舞山月記 | 有無ノ一坐 明日金曜日19時より大阪千代崎の有無ノ一坐スタジオにて第22期影舞山月記が始まります。影舞は、ふたりの人間の肉体と魂と霊性がかかわりあう全体的な「生き様の舞台現...


    自分で説明はできないのですが、少なくともそこで何を感じたかについての感想はお伝えできるので、書いてみたいと思います。

    ひととの在り方の本質を体感的に感じられた

    相手と身体の一部を接しながらその一度だけの舞を共有することで、「あぁ、これがひとと自分のあり方の本質だ」というのを体感的に感じることができました

    相手と一点を接するという唯一の制約があるだけなのですが、その制約が完全に自分を独立した、切り離された存在にもさせず、かといって”自分”というものがそこにないかと言えばそうでもない、お互いがそのような状況にいながらその瞬間関係し合っています

    それは日常だとすごく目に見えくく、感覚的に分かりにくいもの。

    わたしは、人とのかかわりと自分の存在について「自立」「独立」「依存」「癒着」などという言葉を使ってなんとか自分に対して説明しようとしてきました。

    それはそれでいいのですが、実際は、(それらの言葉にどういう意味を持たせどのような文脈で使うか、ということにも拠りますが)、完全な自立も独立も依存も癒着もなく(あるかもしれませんが、在り方としての本質ではなく)、「どうしても相手と切り離せはしない、その存在を意識しないわけにはいかない、けれどもちゃんと自分もそこに確かにいる、相手もいる、その2人でその瞬間ともにそこで存在する」というのが、「ひとがひととともにいることの本質」であり、また「ひととして生きることの本質」でもあり、それが影舞というかたちで実際に目に見え体感できるものとして現れる、ということなのではないか、と感じました。

    そういう意味で、とても面白い体験でした。

    「ゆらぎ」というものについて

    そう思うと、「ゆらぎ」というものに対して「悪くないな」という気持ちも抱くことができる気もしました

    「一貫した自分」「どの人に対しても同じ態度で接する」

    社会の中ではこういう在り方は「かっこいい」ように見えますし、わたし自身こういう自分になりたくて、そうあろうとしてきました(今もそうですが……)。

    でも、影舞をすると、相手によって変わるし、同じ相手でもきっと舞ごとに変わります。それは、自分も相手も刻々と変わる存在であり、それはつまり、どちらも「その一瞬しかそこにいない」ということ

    だからずっと一貫した自分なんてあり得ないし、それは相手もそうだし、相手が違えば自分だって違ってくるのは、そういうもんなのかもしれない、と思えて、少し気持ちが楽になったようにも感じました。


    他方で、ヴィクトール・フランクルが『夜と霧』のなかで書いていたように、「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けること」(p129)である、ということを思い出すと、相手に向き合うこともそうしてその一瞬一瞬どう自分が「在る」かを求められているとも言え、逆にむしろ恐ろしくも感じました。

    影舞参加後に、「揺らぐ」ということばを使われていたページを有無ノ一坐さんのHPで見つけました。

    ……皆さんみたいなボランティア、いやボランティアと言うのも止めよう。みなさんのような世界でたったひとりの人が、もうひとりの世界でたったひとりの人と関わる時、彼らを癒してあげるんじゃない、彼らを気づかせたり成長させるんでもない、その人と一緒に揺らいで生きるねん。お互いに揺らいで生き合うねん。対峙して仕合うねん。仕合うと時間は関係なくなって、時間を超えてその人とわたしだけの空間が開く。それはふたりにしか分らない体験で、それでいいんです。……


    熊本での橋本さんの講演録の最後の方の言葉です。わたしが抱いた感想と文脈は違うのですが、「お互いに揺らぎながら生きる」というのは、まさに影舞だなと、改めて感じました。



    引用した講演録全文はこちらのページにあります。

    有無ノ一坐
    くまもと 子ども・若者 “よりそい” シンポジウム 基調講演録 | 有無ノ一坐 2024年10月、熊本市での「第13回 くまもと子ども・若者'よりそい'シンポジウム基調講演」の逐語記録を、「フレンズネットワーク」の石井 嘉寿絵さんが作ってくださいまし...


    呼吸深くいられた

    それから、影舞の最中も終わったあとも、自分の呼吸が深くいられる感じがしたこと。

    それは影舞だけでなくて、橋本さんのお話や、参加者のみなさんとでできあがったその場の空気がわたしに深く呼吸することを可能にしたのかもしれません。

    『一緒に冒険する』のなかで橋本さんは、「呼吸することと生きること」について述べておられました。

    「話す」って、一言一言が呼吸です。だから僕が話せるというのは呼吸ができることであって、もし相手が僕の心の底まできいてくれるなら、僕はこの呼吸を心の底からできていることになる。喋れるというのは、音にのせて息ができるようになっていくわけです。
    喋っていて、息ができなくなるような相手もいる。声も小っちゃくなってしまったり。そんな相手からは全力疾走で逃げなあかんのに、「仕事だから」「勉強だから」「夫だから」とか、そういうことで一所懸命そこに居つづけるわけだね。……

    息ができる相手のところに人も集まるし、ディズニー映画のバンビとかジャングルブックとか、森の動物も集まって来るじゃないですか。それは、そこにいると息ができるからだ。それが「話す」ということで、日本語では息ができるそのことを「生きる」と呼ぶんじゃないですかね。答えは非常に簡単にそこにあると思います。(p171)


    影舞では言葉はかわしませんが、その日橋本さんがおっしゃっていた(内容だとわたしは記憶しているのですが少しおぼろげです)「相手に対峙しながら同時に自分と対峙している」、この影舞の時間と空間は、けっこう大音量で音楽が鳴っていたのですが、なぜかすごく静ひつで、自分の中、「心」というよりはどちらかと言えば「身体の中」に感覚は近いのですが、が洗われた気がしました。

    今の自分の生活は好きですが、より「息ができる世界で生きたい…..」という言葉が思わず出てきてしまい、この深い呼吸がいつでもどこででもできるといいのに……と感じました。

    いかに日ごろ「集中」できていないか

    初回参加だったからということもあるかと思いますが、影舞はめちゃくちゃ集中したので、本当に疲れました……

    たぶん、他の方の影舞を観ているときも、ものすごく集中していたんだと思います。

    心地よい疲れではありましたが、これまで「集中する」ということの精度を上げる手立てはいろいろとってきたつもりではあったのですが、いかに自分が日頃「集中」していないか、というのがすごくよく分かりました。

    「舞」についての感想の言語化は難しい

    舞を終えたあと、やってみての感想をお互いに話したり、観ている人も観ていてどのように感じたか、感想を交わし合います。

    影舞について自分が舞った感想を言語化するのも難しいのですが、それ以上に他の方の舞を観た感想を言うのがとても難しかったです。

    初めてなのでということももちろんあるとは思うので、舞を「観る」ということで開かれる自分の弁というか回路というか、自分の受け取りが今後どのようになっていくのか、というところに着目していくのも面白いかな、と思いました。

    また参加したい。

    どれだけ影舞のことやイメージについてお伝えできたか……(たぶんほとんど伝えられていないんじゃないか……)自信はないのですが、いろんな人とそのときどきのタイミングで影舞することで、その一瞬しかできない影舞があり、そこにどんな自分、どんな相手が表れるのか、そして影舞に参加することで、相手との「一瞬のかかわり合い」とその揺らぎについて日常生活に(自分の感じ方を含めて)どんな影響をもたらすのか、ということに興味があるので、また参加したいと思っています。

    また円坐もぜひ参加したいと思っています。

    「有無ノ一坐」さんは全国で円坐や影舞など開催されているようですので、もしご興味持たれたらぜひ参加してみてくださいね。


    口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 official website

    有無ノ一坐
    有無ノ一坐 円坐影舞を生業とする一坐のサイトです



    また西村佳哲さんの『一緒に冒険する』も、ぜひ読んでみてください!
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