こんにちは。
暑かった夏ももう去り、「秋晴れさわやかな空の青さが目に染みるなぁ…」なんて思いながら、今日はちょっと真面目な話をしようと思います。
8年かけて辿り着いたもの
精神分析的心理療法を続けて、8年が経ちました。
最初は「もっと早く終わる(終えたい)」と思っていたのですが、続けているうちに「ああ、まだ自分のなかに見えていないものがあるな」「もう少ししたら自分が探しているものが見つかるかも」と思う瞬間がたびたびあって、結局いまも続けています。
そんな中で、先日のセッションでふと「これが、自分の生きづらさの根本かもしれない」というものに辿り着いた感じがありました。
そして、自分の経験とこれまでに学んできた心理学や思想などの知識、本で読んださまざまな言葉と重ね合わせると、「これは自分だけのことではなく、多くの人にとって自分の抱える生きづらさを理解する手がかりになるのではないか」と思いました。
もちろん、これが絶対の答えじゃないと思いますし、人によって事情はさまざまです。それにもう、誰かがすでに語っていることかもしれない。
それでも、自分自身の体感を伴って言葉になったものであり、もしかして、これを読んでくださっている方にとってもなにかのヒントになるかもしれない、と思ったので、ここでシェアしてみたいと思います。
「すきま」があるかどうか

結論から言うと、生きづらさの根本は「”すきま”があるかどうか」にあるんじゃないか、と思うのです。
ここで言う”すきま”とは、
- 刺激と自分の反応とのあいだに生まれる余白
- 「自分と他者」や「自分と自分自身の考え」とのあいだに置く距離感
といったものです。
『7つの習慣』の著者であるスティーブン・R・コヴィー氏が「刺激と反応のあいだにはスペースがある」と述べていましたが、それに近い感覚です。
この”すきま”を、出来事、人、自分自身などあらゆるものにたいして持てるかどうかで、日常で感じるしんどさや苦しさが大きく変わってくるのではないか、というのが、わたし自身の経験などに照らしあわせて思ったことでした。
たとえば……
人の顔色をうかがってしまう
これを読んでくださっている方のなかには、「人の顔色が気になってしまう/うかがってしまう」という人もいるかもしれません。
相手が不機嫌そうに見える、その瞬間に自分の心が大きく揺さぶられ、焦りや不安の気持ちになってしまう。
それは、「刺激=相手の表情」と「反応=不安になる自分」のあいだに”すきま”がないから、自分の気持ちが相手の表情に支配されてしまっている、ということです。
”すきま”がないから、相手の表情一つで自分の気分や行動が決まってしまうのです。
でも、そこに少しでも”すきま”を置くことができれば、「あ、あの人機嫌が悪そう。でも、それは相手の事情」と考えられる余裕が生まれます。
もしかしたら、お腹が痛いのかもしれない。相手を心配する余裕すら生まれます。
仮に自分のせいで相手が不機嫌になっていたとしても、”すきま”があればそれに自分が飲み込まれて不安になることはないし、そもそもなる必要もないんです。
他人と自分を比較して落ちこんでしまう
本来、他者と自分は全く違う背景を持った別の存在です。体つきも、性格も、特徴も、歩んできた経験、出会ってきた人も、すべてが異なります。つまり、自分と相手のあいだには、かならず”すきま”があるはずです。
でも、その”すきま”があることを無視して、あるいは忘れてしまって、たった1つや2つのモノサシで自分と相手を比べてしまうと、苦しさが生まれます。
「あの人はできるのに、自分はできない」
「あの人は持っているのに、自分は持っていない」
前提や背景が違うのに、そこだけ比べても、ただ自分を苦しめるだけなんですよね。
だから、本来あるはずの”すきま”の存在を思い出すだけで、「自分は自分、相手は相手」と切り分けて捉えられるようになり、少なくともやたらめったら他人と比較して自分を痛めつける、ということは減っていきます。
苦手な人に対応する
苦手な人、嫌いな人、いますよね〜笑
不思議なもので、苦手な人とか嫌いな人のことほど考えちゃったり、いちいちその人の言動に神経が逆なでされたりしてしまいます。
そうやって、その人の言動をいちいち気にしてしまう=べったりとくっついてしまうと、相手の不機嫌や攻撃性にそのつど自分の心が削られます。「どう対応すべきか…」と必死になり、相手に合わせて、どんどん消耗します。
難しいかもしれないのですが、これも相手とのあいだに”すきま”を置くようにできると、状況は少し変わってくるかもしれません。
「自分は自分」「相手は相手」と分けることで、相手に振り回されず、自分の軸を保ちながら関わり、相手に自分の心を支配されずに済む確率が上がるんだと思います。
自分自身との関係において
”すきま”は、自分自身とのあいだにも必要です。
たとえば「〜しなければならない」という考えにとらわれているとき。その考えと自分が一体化してしまうと、逃げ場がなくなり追い詰められてしまいます。
でも、そこに「本当にそうだろうか?」「別のやりかたもあるかもしれないよ?」という”すきま”を置くことができれば、他の可能性が見えてきます。
そうして、「必ずしも今でなくてもいい」「他のやり方もある」「”絶対”じゃないな」といったように、選択肢が浮かんできます。
わたしは、自分自身との”すきま”が、自分のしんどさや苦しみから解くもっとも重要な”すきま”であり、他方で同時に、それをきちんと置くのがもっとも難しい”すきま”なんじゃないかと思っています。
出来事は変えられないけれど

もちろん、人生で抱えるしんどさは「心のもちよう」だけで片付けられるものじゃないし、生きづらさの理由は人によって違います。
お金がない、大切な人を失った、病気になった…そうした物理的で切実な出来事は、多かれ少なかれだれにでも起こり得ます。
そういうことを「気持ち次第」とか「考え方で変えられる」なんて軽く言うつもりはありません。
ただ、その出来事に直面したときに”すきま”を持てるかどうかは、そのときにもその後にも、大きい影響を与えるんじゃないかと思います。それは、わたし自身のこれまでの実体験として思うことです。
出来事そのものは変えられないかもしれません。
でも、それにどう向き合い、その後の日常をどう築いていくかは、”すきま”の有無によって変わる。”すきま”を置いて考えられるということは、出来事に呑み込まれず、それらに支配されず、自分の人生を生きる大きな助けになると思っています。
失った”すきま”を取り戻す

思えば、心理療法を通して取り組んできたのは、徹底してこの「”すきま”を自らつくる訓練」だったのかもしれません。
自分が「こうなんです」としんどく感じている話をすると、いつも先生に、「ayaさんは、そう思っているんですね」と返されました。
つまり、自分が「これだ、これしかない」「どうしようもない」「動かせない、決まった現実だ」と思っているものは、それらの”現実”や出来事や状況と自分が、いわば「癒着」している状態なので、そこに先生が「それは、あなたにはそう見えている、ということでしかない」とつっこむことで、わたし自身の認識と実際との間に”すきま”を作ってもらっていたのです。
人の顔色に振り回されるとき、人との比較に苦しむとき、苦手な人に絡め取られるとき、そして自分自身の「ねばならない」に押しつぶされるとき。
そこに共通しているのは、「”すきま”を失っている」という状態があるのだと思います。
ひとりノリツッコミ

失った”すきま”を取り戻す。
こう言うとなんだかたいそうなことに聞こえます。
わたしの場合は自分の育ってきた環境なども影響し、ひどい「癒着」を解消するのに専門家の助けを得て8年以上かかっています。
もしかすると、これを読んでくださっている方のなかには、専門家と一緒に時間をかけて自分のことを考える機会があるほうがいい人もいるかもしれませんし、その場合にはそれなりに時間とお金もかかってきます。
が、まずは今回これを読んでいただいて、”すきま”の存在を知ってもらったことで、少しこれからの出来事への対応が変わってくるかもしれません。
具体的には、たとえば、自分が「〜〜しかない!!」と思ったときに、「ほんとにそれだけ?」と問いかけたり、「あぁ、わたしはそう思ってるんだよね〜」と自分に話しかけたり。
人とのことであっても「あぁ、この人はこう思ってるんだな〜、でも自分は違うけどな〜」と心でつぶやいたり、「この人はこの人、わたしはわたしだしなぁ〜」としっかりめにシャッターを降ろしてみたり(心のなかで、ね)笑
要は、自分の心のなかでノリツッコミする。
これが、”すきま”をつくるための方法でもあり、これができている状態が”すきま”がある状態、とも言えるんじゃないかと思います。
あとは、深呼吸や瞑想で自分を落ち着かす時間を日常に設ける、というのも、現実的な方法だと思います(この辺りはまた自分も実践しつつ、書きたいです)。
そうして、どんどん、”すきま”を、距離を、設けていけることで、本当に少しずつですがラクになっていくんだなぁ…というのが、自分の実際の経験として感じているところです。
わたし自身、まだ途上にいますが、この”すきま”を大事にしていきたいと思っています。
