Nobody is right. だから「わたしのrightだ」と自覚する


    あるとき、人と仕事をしていて、ふと気づいたことがありました。

    「なんのためにやっているのか、考えていないのかな」と感じたときに、どうやらわたしは少しイラッとしてしまうらしいのです。相手が目的を意識せずに動いたり作業したりしているのを見ると、なぜかほんの少し腹を立ててしまっている自分がいます。

    この感覚は、実は自分のパートナー(以下、P)とのあいだでも感じたことだったのですが、今日はわたしがここから気づいたことについて書いていきたいと思います。

    とある夏のエアコン問答



    「エアコンをつけるときには、窓をしめてほしい」

    と、わたしはPに伝えていました。

    「わたしはエアコンの風が苦手で、エアコンをつけるよりも外の風で涼をとりたくて窓を開けていることが多い。でも、開けておくこと自体にこだわりがあるわけではないし、Pに暑さを我慢してほしくないから、Pが暑いならエアコンをつけてもらって全然構わない。ただ、つけるなら、冷気が逃げないように窓を閉めてほしい。」

    そう、何度も伝えたのです。

    ところが、そう伝えていても、Pは窓を閉めずにエアコンをつけていることがしばしばありました。そのつど、わたしは「閉めてほしい」と言い(あるいは自分で閉め)、そのたびに、「なんで何度も言っているのに、伝わらないんだろう。エアコンはつけてもらっていい、でもつけるなら、冷気が逃げて電気代ももったいないから閉めてって言っているだけなのに。わたしがこれ言ってる目的、分かってる???」と、いつも少しイライラしてしまっていました。



    それだけのやりとりなのですが、あるときこの話をAIにしてみたところ、こんな返事が返ってきました。

    「目的に意識を向けるのはあなたの強みです。でも、みんなが同じ考え方をするわけではありません。論理や目的より、気持ちや快適さ、習慣を重視する人もいます。どちらが正しい・間違っているという話ではありません。」


    それを読んで、はっとしました。

    みんなが同じ考え方を持っているわけじゃない。
    そんなこと、自分は重々知っていると思っていたのに……


    わたしは、「外気を取り入れる目的なら開けておくし、エアコンをつけるなら空気を逃さない目的で閉める」、そう考えることが、”理にかなっている”し”当たり前”だと思っていました。

    そんなわたしにたいして、振り返れば、Pはよく、「開けといたほうが(わたしにとって)いいかなと思って」ということを口にしていました。おそらく、Pは、わたしが快適である(かつ、自分も快適)ために窓を開けていたのです。



    つまり、わたしの理屈はたしかに正しいかもしれないのですが、Pの行動もまた、Pなりの“正しさ”に基づいた行動だったのです。

    2つの気づき


    ここで、わたしは大きく2つのことに気づきました。

    ひとつは、自分の「目的重視」の考え方は、自分にとっての特性であって、誰もがそうではあるわけではないし、この「目的重視」のわたしの考え方が”正しい”わけでもない、ということ。

    ふたつめは、Pをはじめ自分以外の人と関わるときは、互いの“正しさ”を持ち寄って、「ちょうどいい真ん中」を探すものなのだ、ということ。


    つまり、Pとの今回のケースであれば、論理や目的を持ち寄るわたしと、快適さや気持ちを持ち寄るPが、異なる人間同士「ちょうどよさ」を探しながら調整し、「ともに生きること」を実践&実現していく、そういうものなのだ、ということなのです。

    「そんなことわかってるよ」と思っていたのですが、AIの指摘を受けて、まだまだ自分がその実践ができていないし、気づいていないことがあったということに気づかされました。

    Nobody is right.



    この話を思い返していたとき、頭の中で、中島みゆきさんの『Nobody is right』が鳴り出しました。

    もしも私が全て正しくて とても正しくて 周りを見れば

    世にある限り全てのものは 私以外は 間違いばかり

    もしもあなたが全て正しくて とても正しくて 周りを見れば

    世にある限り全てのものは あなた以外は 間違いばかり 



    学生時代、人生の選択や家族との関係、将来のことに悩んでいたときに、友人が教えてくれた曲でした。

    当時のわたしはこの曲から、「絶対的な正しさはない。だから他人の言う“正しさ”に飲まれなくていい」というメッセージとして受け取りました。


    時を経て今、あらためてこの曲を聴くと、自分のなかで受け取り方が以前と少し違うことに気がつきました。

    以前は、“他人の正しさ”を気にしたり、それへの自分のあり方や合わせ方に悩む自分への助言と受け取ったのですが、今は「自分自身の考えや行動もまた、絶対に”正しい”というものではないのだ」と、深く深く省みることを促されている気がしています。

    わたしの「目的重視」も、たしかにわたしにとってはrightだけど、他の人にとってはrightとは限らない。「自分の常識は他人の非常識」という言葉もありますが、ぼんやりしていると「Nobody is right.」という考えをうっかり忘れていてしまいがちだということに、あらためて気づかされました。

    「これはわたしのrightである」と思いながら、出していく



    ただ、わたしは「自分のrightを出してはいけない」と思っているわけではありません。

    問題なのは、自分のrightをあたかも自分以外みなにも等しく通用する正しさだと思い込むこと。

    まずは、「これは自分にとってのrightで、他人にとってはrightじゃないかもしれない」と自覚できればいい。それができるというのは、相手と自分は違う存在として、線を引いて接することができるということであり、それは自分という存在の自立の土台になるものだと思います。

    そして、それを前提にして、相手のrightの存在を認識しながら、場合によってはそれを聴いたり、考慮に入れたりすることもあるかもしれませんが、それらをふまえて自分自身のrightに立ち返り考えたり、そのうえで自分のrightに基づいて行動する、ということこそ、自分の人生を生きることなのではないか、と思います。



    もし、だれかに「あなたは間違っている(もしくは、正しい)」と言われたり、「自分はこれでいいのか、”あってる”のか?」といったようなことを自分で考えてしまうときには、その”正しさ”は「なに的な”正しさ”なのか?」「だれにとっての”正しさ”なのか?」を考えてみるいい機会かもしれません。

    他人の”正しさ”に自分ががんじがらめになっているかもしれないし、もしかすると、自分にとっての”正しさ”もまた、実は自分を絡めとって苦しめている要因の一つになっているかもしれないです(それは、自分が知らないうちに、他人の”正しさ”をインストールし自分の”正しさ”にしてしまったものかもしれません)。

    そして、やはり自分もまた、自分自身の”正しさ”に固執したりそこから人やまわりを見ていたりしているんだ、ということに気づけると、そのときには、なんだかふぅっと気が楽になるような気持ちも、味わえるかもしれません。