人生は、思ってたより自由で、思ってたより重い

    この夏、ずっと読もうと思って買ったまま手放し、また手に入れてから1年以上ほったらかしにしていたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を、ようやく読みました。

    ここ数ヶ月、読む本や目にする記事が、のきなみ「自分で選べる」「精神は自由だ」というようなことを言っており、この本がどうやらその根本になっているようだったので、読んでみようかな、と思ったのです。

    目次

    『夜と霧』って、こんな本

    この本は、第二次世界大戦中の強制収容所での体験をもとに、人間の精神のあり方を描いた本です。著者のフランクルは精神科医で、極限状態に置かれた人間の心理を観察し、「どんな状況に置かれていても、人間の精神はかならずしも環境に屈しない」ということを示しています。

    簡単に言うと、「たとえどんな過酷な状況であったとしても、自分の心のありかたは自分で選べる」ということが、収容所での過酷な日々の描写をふまえて述べられています。

    人生は思ってたより自由

    『夜と霧』のなかでフランクルが伝えたいのは、絶望的な状況にあっても、それを「どう捉えるか」「どう考えるか」「どう行動するか」は、「自分で選べる」ということだと理解しました。

    …人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない…..(p.110)

    つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。(p.111)


    たとえどういう状況に自分が置かれていても、どんな反応をするかは自分で決められる。

    これはひとつの「希望」です。現実は変えられないけど、その現実にたいする自分の反応は選べる

    だから、わたしたちは、わたしたちの精神は「自由」なのです。

    でも、思ってたより重い

    他方で、この「自由」が照らしているものはなんなのか。フランクルの記述を読み進めていくと、かならずしも「希望」だけとも受け取れないな、と感じました。

    「生きる意味」について触れられている箇所から抜粋します。

    ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。…もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ…生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(p.129)

    具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。(p.131)


    「生きる意味」についてフランクルがどのように言っているのか、今回はそこには深く触れないでおきます(別の記事で考えたいと思っています)。

    生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受ける

    「たった一度、ふたつとないあり方で存在する」「ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はある」



    これらが意味することは、目の前にある状況や事柄にたいして「自分はどうあろうとすることを選択するのか」ということが、いつも、ことあるごとに、そのたびに突きつけられている、ということだと理解しました。

    それはつまり、自分がどう考え、どう行動するかは自分で選べるし、選ぶことを求められている。そして、どのようにも選べる。だけど、その結果はいつも自分の選択の結果である、と。

    「あのときこうだったから…」
    「○○さんにこう言われたから…」

    そんなふうに考えがちだけど、状況に関わらず自分の反応を自分で選べる自由がわたしたちにあるのならば、その反応を選んだ理由を誰かやなにかに押し付けることはできない……






    ……これは、かなり厳しいことを言われている。






    わたしは、そんなふうに感じました。

    これは、「自由」にたいしてよく言われる「責任」というものに近い気もしますが、どちらかと言えば、フランクルが使っている「義務」という言葉、つまり「選ばなければならない」という言葉のほうがしっくりくる気もします。


    生まれた場所も育った環境も、そのときどきの周囲や、社会の状況も、自分で選べなかったこと、選べないことがたくさんあります。わたしたちは、そういったものを抱えて生きてきています。

    でも、日々、常時、自分自身や自分の身の回りにあること・起こることがある。「風邪を引いた」とか、「電車が遅れた」とか、そんなことひとつとってみても、それを自分はどう受け止め、どのように振る舞うのか、どう行動するのか。それを、わたしたちは選べるし、選ばなくてはいけない。


    かならずしも、「風邪を引いた」から「気持ちがふさぐ」んじゃないし、「薬を飲む」わけでもない。
    かならずしも、「電車が遅れた」から「イライラする」んじゃないし、「焦る」んじゃないし、「機嫌が悪くなる」わけでもない。


    これらは全て、それぞれの人が自分の置かれている状況にどう反応するかを、その人が選んでいるということだということなんですよね。



    これを完全に受け入れるのは、なかなか難しいことだと、わたしは思っています。




    人の顔色が気になるタイプの人(わたしです)は、「だれだれさんが怒っていたから、気持ちがそわそわした」と感じることがよくあると思いますが、これもフランクルの話をふまえると、「だれだれさんが怒っていたから」というのは、理由にならないんです。実際、そわそわはするんですが、それは自分がそのように感じることを選んでいる、ということになります。(そういう環境に自分が自らを置いている(自分が心地よくいられる環境を自分が選んであげられていない)と言える場合もあると思います。)

    同じ怒った人の顔を見ていても、うんともすんとも響いていない人だっています。その人は、たしかにわたしたちよりも敏感でないのかもしれないし、「そういう人と同じように語るのは違う」と思いたくなる気持ちも、よくわかります。そう思っていても、いいんです。「そう思う」ということを、「選んでいる」ということです。それ自体に、いいも悪いもないのだろうと思います。

    それでも、やっぱり「選べる」のであれば、少しでも自分が「人の顔色に支配されない自分」でありたい。自分のためになるように「選びたい」。すぐに、全く気にならないふうになるのは難しいですが、相手の顔を見てるフリしながら見ないようにしてみるとか、ばっと立ち上がってその場を去るとか、怒った人を見ながら口元は口角をあげておくとか、根本的には人の顔色にたいする認識を変える訓練をするとか、もちろんできることできないことはありますが、でも、選択肢は「1個」じゃないんです。



    わたしたちには、選ぶ「自由」がある。
    その中で、なにを選ぶかは、全部、自分にかかっている。
    自分、以外は、決められない。
    だれも、わたしの認識・反応・感じ方・考え方を従わせることはできない。
    でも、それらはすべて、わたし自身が決めなければならない。




    なんど噛みしめても、なかなか厳しいものがあります。



    この本を読んで、自分の人生を貫く「自由」と「義務」の重みがずっしり心にくるのを感じました。

    正直、「そんな重いものを持って生きていける自信、ないよ」と思いました。



    でも、もし、わたしたちが、本当の意味で「自分の人生を生きたい」と思うのなら、たぶんここから始めないといけないようにも思わされました。

    自分が選べる自由があることを自覚し、どう選ぶかは全部自分にかかっていることを自覚することで、他者に振り回されず、支配されず、自分のために生きる人生になる。


    難しいけれど、その重みを受け止めていくことで、少しずつでも本当の意味での自分の人生を歩んでいけるようになるんじゃないか、というのが、この本を読んだもっとも大きな気づきでした。

    刺激と反応の間にスペースをつくる

    私がこの本にたどりついたきっかけの一つは、スティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』でした。

    第1の習慣で言われている「主体性」は、まさに『夜と霧』で言われているような、「刺激と反応の間にスペースをつくり、自分で反応を選ぶ」という考え方を体得することです。

    外の状況に関わらず、私たちの内面では選べるものがあります。選ぶのも、決めるのも、自分自身です。そしてその自由は、選んだ結果もすべて自分に返ってくる。

    人生は自由で、でも思っていたよりも重い。その重さを少しずつ受け止めながら、自分の人生を歩いていく。

    それが、「人生」というものなのかもしれません。

    「こう」以外もある、ということを頭の隅に置いておく


    今これを読まれているあなたが、もし、とてもつらい状況にいるのなら、まず「ほかにも選択肢はある」ということを、少しだけでいいので考えてみるところからやってみませんか。

    だれかと一緒にいてなにか同じ状況に直面したとき、自分とまわりの人の反応は違うな、と思うことはありませんか?それは、あなたが間違ってるとか、あってるとか、そういうものではなく、目の前のこと、起こっていることや状況、出来事などの「刺激」にたいして、それを「どう受け止めるか」「どう感じるか」、そのうえで「どう行動するか」について、人それぞれその受け止めや反応がみな違っているということの現れです。


    「こうとしか思えない、考えられない」
    「こうするほかない」

    と、わたしたちは思いがちだし、実際客観的に見てもそのほかにはなかなか選択肢が見い出しにくい場面もあるとは思うのですが、それでもやはり、「こう」以外の考えも、反応も、感じ方も、行動も、あるんです、きっと。

    そういうことなんだと思うんです。



    「ある」ということを頭の隅に置いておくだけで、自分を責めたり追い込んだり、逆に人を非難したりすることはだいぶ避けられると思います。

    そこから少しずつ、自分の「選択」を選び取っていくことで、自分の人生を一歩ずつふみしめ生きるということが実現していくのだろうと、信じて日々を過ごしてみようと思います。




    もし、もっと前に『夜と霧』を読んでいたら、もっと早くこのことに気づけて、自分の人生は変わっていただろうか?……いや、おそらく、数年前のわたしには、この本の内容をこういうふうに受け止めたり、感じたり、考えたりすることはできなかっただろうと思います。

    なので、今、このタイミングでこの本を読むことができてよかったな、と思っています。

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