
「生きててよかった」って思える瞬間、足りてますか?
って
「なんでそんなん訊かれなあかんねん!」と苦笑いしつつも、
「控えめに言って、日々サイコー。今日も自分の人生生きた。超〜〜しあわせ」
って、心から即答できるような、そんな日々を送りたい。
こんにちは、ayaです。
30を目前にギターをはじめて以来、ギターを起点として広がった世界の中で、生きています。
ミュージシャンとしてプロの道を突き進んでいるわけではありませんが、
ブラジル音楽のサンバやボサノバを中心に、
ライブ活動(ソロ・グループ含む)をしたり、
「パゴーヂ」と呼ばれるサンバのセッションに参加したりしています。
また、サンバを通してポルトガル語に出会い、
ネイティブのレッスンを受けたり、
学んだポルトガル語を活かして、ブラジル料理店で働いて接客にチャレンジしたり。
でも──
こんな日々が来るなんて、夢にも思いませんでした。
なぜなら、それまでの10年あまりは、ただただ、生き延びるための毎日だったから。
もがいて、あがいて、手を伸ばしなにか「光」を掴もうとしては、
何度もなんども、
「生きるのをやめたい」
と思った日々だったから。
この文章を読んでいるあなたも、ひょっとすると、今、どこかで立ち止まっているのかもしれません。
たとえば──
- 生きている意味がわからない
- 夢中になれるものが見つからない
- 周りの目ばかり気になる
- がんばってきたつもりなのに、報われない気がする
- 1年後の自分すら、想像できない
- 「芯がない」「自信がない」そんな言葉が、自分に重なる気がする
- 自分に価値を感じられない
………これ、ぜんぶ、かつてのわたしでした。
仕事も、人間関係も、行き詰まりまくってきた人生。
それでもギターと少しずつ向き合う中で、
ギターや音楽が自分の人生を大きく支えてくれるのと同時に、
その世界を通して自分の自身や人生を映し出してくれていることを知りました。
その結果、「生きるのをやめる」という選択肢を自分から手ばなすことができました。
転びまくっているわたしですが、
だからこそ、伝えられることがあると思っています。
それは、
ギターや音楽を通じて、
自分自身が自立し、真に自分の人生を生きていける。
そして、他者と本当の意味で「ともに」生きられるようになる。
そう「在る」ことで、
「あぁ、あったかいなぁ」
「生きててよかったなぁ」
と思える瞬間が
自分の人生に、少しずつ、でも、たくさん、増えていく。
わたしはそれを、伝えたいと思います。
どこへ進んだらいいか分からない暗闇の中で
なんとか必死に前に進もうともがいている
昔のわたしみたいなかたへ。
お手紙のように受け取ってもらえたら、うれしいです。
「生きづらい」って言葉さえ、知らなかった….
自分の「生きづらさ」に直面したきっかけは、一人暮らしと、はじめての恋愛でした。
高校時代から付き合っていた彼と、同じ大学へ。
最初はうまくいっていました。
でも、大学1年の終わり頃、突然、なんの前触れもなく、
わたしは自分から別れを切り出してしまったんです。
翌日になって後悔し、謝って、ヨリを戻してもらいました。
でも、しばらくするとまた「別れたい」と言ってしまう自分がいた。
2回目は、もう許してもらえませんでした。
それなのに、「失恋した」ような気持ちになって、毎日泣いていました。
自分から別れたはずなのに。
彼の言葉ややさしさを思い出しては、胸が痛くなり、
「どうしてあんなことを言ってしまったんだろう」と責め続ける日々。
ばかみたい。
自分の子どもっぽさや未熟さが恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
その頃から、「自分って、いったいなんなんだろう」と考えるようになり、
「自分のダメさ」を徹底的に否定するようになりました。

大学生活も、どこかぼんやりしたものでした。
将来やりたいことなんてなくて、興味のある分野もわからないまま、
「とりあえず将来のため」と入った大学。
けれど、授業はどれも「これが何になるんだろう?」とピンとこない。
友だちもいたし、
興味をもって取り組んだ活動もあったし、
アルバイトも一生懸命していたけど、
生活はどんどん乱れ、昼夜逆転。
授業にも出られない日も多く、心もすり減っていました。
そんなときにやってきたのが、「就活」という現実でした。

自己分析
……は????
「長所を書いてください」と言われても、出てこない。
「将来どうなりたいですか?」と聞かれても、まったくイメージできない。
あぁ、わたし、自分のこと、本当に全然分からないんだ…….
まわりがスーツを着て就活に走り出す中、どうにか見よう見まねで始めてみる。
でも、自分が働いている姿なんて想像できない。
履歴書も、ESも、心から言えることがない。
「自分ってなにか」が分からないから、書いてることぜんぶ嘘みたいで、しんどい。
その頃、わたしの中でずっと眠っていた「ある癖」が、再び顔を出しはじめました。
リストカット。
中学生のときに始まり、おさまっていたのに、手に血をにじませていました。
もう毎日、「生きたくない」「消えたい」という気持ちが、自分の中から離れませんでした。
そんなとき、偶然目に留まったのが、葬祭業界のアルバイト。
「死に近い場所に行ったら、自分のこの気持ちに何か変化が起こるかもしれない」
すがるような思い、近くの葬祭会館でアルバイトを始め、
やがて、亡くなった人の身体を洗い清める「湯灌」の会社に内定をもらいました。
でも、自傷行為は止まりませんでした。
大学4年のとき、友人のすすめで心療内科を受診。
長期的な心理療法を勧められましたが、就職も控えていたわたしは、
とりあえず通院するだけにとどめました。

社会人になって、もっとしんどくなりました。
自分が望んだ仕事のはずなのに、なんだかうまくいかない。
職場の人間関係がつらい。
いつも「ちゃんとできているか」ばかり気になる。
がんばっているんだけど、前に進んでいない気がする。
当時、なんとなく自分が抱いていた「夢」はありました。
だから、そこに近づくような、自分の「やりたいこと」を探して、
少しでも光の見えるほうに向けて、転職を繰り返しました。
全体的に状況は、よくなっているはず。
でも、なんだか、ずっとあがき続けていました。
なんで?
なにがダメなんだろう……?
終わりのない苦しみの中で、お酒と自傷行為が、ひとりになったときの自分を支える手段になっていました。
ある日、上長と意見が大きくぶつかったことを受けて、
「やっぱり、わたしは欠陥だらけで、仕事も続かないし、人ともうまくやれないし、ダメな人間なんだ」
「とってもこのまま、生きていける気がしない」
ひどく思い詰めたことをきっかけに、再び、心療内科の門をたたきました。
そして、今度は、
大学生のときにはできなかった長期的な治療「精神分析的心理療法」に、
腹をくくって取り組むことにしました。

精神的分析心理療法とは、セラピストと一緒に、
自分の心のクセや思考の歪み、閉じ込めてきた感情を丁寧に見つめ、
自分を認め、受け入れていく作業です。
自分の痛みや悲しみ、
ふたをして見ないようにしていたつらい記憶、
どうにも怖くて怖くて仕方がないことに、
セラピストと二人三脚で向き合います。
わたしは、自分が「空っぽの空き缶みたいなだな」と思っていました。
風が吹けばカランと転がっていくように、
自分がなくて、
人の顔色や評価ばかり気にして、
簡単に飛んでいってしまう。
でも、治療を経ていくと、その缶の中に、
少しずつ、じっくり、
「自分」という重みが注がれていくような感覚がありました。
「あぁ、自分のこと全然知らなかったんだ」
「『自分』って、こういう人なんだ」
「わたしって、ほかの誰とも、まったく違う存在なんだ」
そんな気づきを、何年もかけて少しずつ重ね、自分を知っていく作業を進めていきました。
たしかに変わってきたことは

治療はまだ続いています。
けれど、たしかに少しずつ、変わってきたことがあります。
それは、「自分の人生を、自分で生きる」ことの感覚を、ほんの少しずつ、実感できるようになってきたこと。
そんな中で出会ったのが、ギターでした。
20代半ばで「やってみたい」と思って買ってギターは、
しばらくただの部屋のインテリアになっていました。
でも、どうしても諦めたくなくて、
思い切ってレッスンに通いはじめました。
ストローク、アルペジオ、指弾き、ソロギター──
子どものころにピアノに触れていたこともあり、
おもしろくって、ただひたすらに、夢中になって弾きました。
気づけば何時間も弾いていて、
お酒をちびちび飲みながら、自分の伴奏でカラオケをするような夜は、
わたしにとって、「生きててよかった」と思えるかけがえのないひとときになっていました。
そんなある日の出来事….
ある日、メンタルの状態が極めて悪くなったタイミングがありました。
ギターをはじめて1年くらい経ったころだったかと思います。
「自分をとても傷つけたい」という衝動におそわれました。
自分を傷つける行動は、その時点でもまだ全然止まっていませんでした。
でも、そのとき、ふと、こんな声が鳴り響きました。
「今、わたしが自分の体を傷つけて、ギターが弾けなくなってしまう未来と、
痛みを身体に置き換えることなく、心にそのまま抱えながらギターを弾く未来と、
どっちがいい?」
そして、わたしは、はじめて、自分の意志で、リストカットをやめることができました。
これは、わたしにとって、「自分とともにきちんと生きる」という道への第一歩になったのです。

当時レッスンでは、ポップスを中心にさまざまなジャンルの曲や奏法を教わっていました。
とある日、出会ったのが、「ボサノバ」。
弾いてみると、なんともゆるやかで、心地よく、いい感じ。
それがきっかけでブラジル音楽への扉が開き、
「音楽仲間」ができ、出会いも広がっていきました。
現在とくに熱中しているのが、「サンバ」。
その中でも、ホーダ・ヂ・サンバという、机を囲んで楽器を持ち寄って演奏するセッションが
自分の中ではとてもおもしろく感じました。
それまで、わたしにとって、音楽は「自分一人でやるもの」でした。
もちろん、家で一人で弾いているのも、楽しい。
でも、先生以外に知り合いもおらず、
ひたすらギターに向き合う孤独な練習が当たり前だったわたしにとって、
誰かと音を重ねる経験は、とても新鮮でした。
楽しいはずなのに……

ところが、楽しく音楽しているはずなのに、ギターに向き合っていると、いろんな感情があらわれてきます。
焦り、嫉妬、無力感、自己否定──。
楽しいはずなのに。
ただ、楽しみたいのに。
「楽しい」とは反対にあるような気持ちが、ことあるごとに浮かび上がってくる。
それに、自分をまわりひとと比較したり、
どう見られているかを気にしたり、
どう振る舞うのが「正解」なのかを、気づけばいつも考えている。
そのとき、ふと気づきました。
ギターを通して出てくる感情は、心理療法でもセラピストとじっくり2人で話します。
そこに浮かびあがる本質的な自分の課題は、これまでの人生の中で何度も直面してきたものと、どこか似ている。
当たり前といえばそうかもしれませんが、
「ギターや音楽を通して現れる課題」と「人生で自分がくり返し直面する課題」は、
つながっていたのです。
だからこそ、
ギターに触れ、音楽を自分の日常に入れていくことで、
自分と向き合い、自分の感情や思考のクセ、自分自身を知っていくことには、大きな意味がある。
ギターを弾くことを通して、
「楽器が弾けるようになる」
「人生が豊かになる」
にはとてもとどまらない、
「自分に”出会い直す”こと」
「自分の人生を生き直していくこと」
そのための、小さいけれど確実なステップになる──
そう思うようになりました。
いま、大切にしていること。

わたしがいま、大切にしていること。
それは、「音楽を介して、自分自身を知ること」。
自分がなにを感じ、なにに反応し、どのような行動をするのか
どんな”思考のクセ”をもっているのか
どんな価値観で、なにが好きで、なにが嫌いで、
なにが得意で、なにが苦手なのか
どんなことを心地よいと感じて
なにを苦しいと感じるのか
どんなことに満足し充足するのか
そうしたことを丁寧に見つめ、
他人と比べず、必要以上に合わせるでもなく、
自分の人生を、自分の力でマネジメントしていく。
自分が自立して生きていく。
自分の人生の操縦席に、ちゃんと自分が座って、
自分が自分のための人生を”オーダーメイド”していく。
そして、
自分が他人とは「違う」存在であることを、リアルな体感をもって知っていく。
それができると、ひとと比較して落ち込んだり、無理に誰かに合わせる必要もなくなります。
むしろ、
自分をちゃんと大切にできるからこそ、
ひとのことも自然に大切にできる。
そんな関係性を、あたたかく、無理なく、ひとと一緒に築いていけるようになる。
「自分とともにきちんと生きること」。
それが、わたしにとって、「真にひととともに生きること」なのです。

ギターを通して、わたしは人生と自分自身に、出会い直してきました。
それは単なる「趣味」には収まるものではありません。
今もそのプロセスの中にいます。
でもだからこそ、確信しています。
ギターに向き合い、音楽とともにあることで、
「本当に自分の人生を生きる」ことができる。
「本当に他者とともに生きる」ことができる。
「あったかい」と思える瞬間を、
「生きててよかった」と思える瞬間を、
少しずつ、小さくてもたしかに、増やしていける。
ギターが、自分を新しい世界にどんどん連れ出してくれる。
わたしが今日まで生きてこられたのは、
いろんな場面でわたしを支えてくれた多くのひとたちのおかげです。
そして、ギターと心理療法を8年近く続けてきて、
今では、自分の身体を自ら傷つけることもしなくなったし、
しんどくて起き上がれない日も、ほとんどなくなりました。
でも、自分のなかの問題や課題がなくなったわけではありません。
今も、人の顔色をうかがって疲れたり、
気を遣っているうちに、自分が何をしているのか分からなくなったりします。
「やりたいようにやっている」ように見える人にイラッとすることもあるし、
今も「一人が一番楽」と正直思うことのが多い。
そんなとき、ギターを弾くと、
人のことや、自分のモヤモヤした感情を、
いったん、自分の頭から追いやることができます。
それは単なるストレス解消ではなく、
「今、ここにいる自分」に集中する、大切な時間。
ギターを弾くことが、「自分に集中する時間」をつくり、
その積み重ねが、自分の人生を前に進める力になる、と気づきました。
ギターに触れるその時間自体を楽しみ、自分の成長や新しい出会いを楽しむ。
「プロになる」でも「仕事にする」でもなくていい。
それでも、ギターを人生の「軸」に据えて、生きていくことができます。
もうひとつ。
けして平坦ではない人生でしたが、
誇れるのは、本当に素敵なひとたちに恵まれてきたこと。
その一方で、
「人ってあやうくて、いつわたしの元から離れてもおかしくないもの」
という不安を、無意識に抱きつづけてきたんじゃないかと思っています。
高校時代の恋愛では、
「相手の期待通りでいないと嫌われる」という不安から、
自分を信じられなくなり、
相手を信じることもできませんでした。
信頼できるひとたちや治療に支えられ、
以前のように大きくこじらせることは減ってきました。
でも、今も、
人と会うときは「ON」、一人でやっと「OFF」になれる、
という緊張感があります。
そんなわたしにとってギターというのは、
「自分が自分でいられる場所」。
そして、
「いつでも”ここ”にいる、こころの拠りどころ」。
音を出すとき、「取りつくろった自分」ではいられません。
気分が沈んでいれば、音に張り合いもない。
気が散っていれば、指ももつれる。
音は、誤魔化せない。
だからこそ、そのままのわたしで向き合うしかない。

ギターがどこまでも問いかけているのは、
わたしは、わたしのままであるかどうか。
わたしがこれからギターとともに歩んでいきたい道は、まさにそこにあります。
これだけ自分にとって大切だと思ってきたギターだって、
他のことに気を取られて手につかなかったり、
人生で音楽とどんなふうに付き合っていきたいのか分からなくなったり、
「なんだか前に進まないなぁ」と腐ったり、
しまいには「え、わたし、ギター好きだったんだよね……?」と自分を疑ったり。
本当に、何度も迷子になってきました。
それはまさに、「ギターの課題」であり、同時に自分自身の「人生の課題」でもあるのです。
ギターを通して、自分の人生を生きる。
自分に出会い直していく。
ギターでぶつかる課題に向き合い、自分の人生全体を前へ進めていく。
それを伝えていくことは、
そのひとの人生の背中を押すこと
同じ感性を持った仲間を増やしていくこと
わたし自身も成長すること
活き活きとした者同士が集い、あたたかいものがやりとりされるのが当たり前な世界になること
そういったことにつながり、
これら全てが、
わたし自身の伝えたい想いと一致した行動だと心から思えたので、
発信していこうと決意しました。
「使命」と言うには、ちょっと大げさな気もするし、気恥ずかしい。
でも、自分の中でたしかに灯っているその小さな光を、
絶やさずに、誰かの心にも静かに届くように、続けていきたいと思っています。
たとえば、こんな気持ちを抱えているあなたへ。
*「人間関係にストレスを溜めがち….」
*「人の顔色を見て生きてしまう、人の評価が気になる….」
*「自分の感情の波に振りまわされがち…..」
*「気持ちの切り替えが苦手…..」
*「続ける力」を身につけたい…..
*「自分に自信がもてない….」
*「音楽やことばで自分を表現したい、出していきたい….」
*「音楽やことばを通じて、ひとと心でつながりたい…..」
*「生きている意味が見えない…..」
*「没頭できることや、夢中になれることがほしい….」
*「いつも自分を後回しにしがちかも…..」
または、こんなひとも。
*ひとりでできる趣味がほしい
*ギターを始めたいけど、続けられる自信がない
*人生全体をレベルアップさせたい
*ボサノバやサンバなどのブラジル音楽に興味がある
*働きざかりのひとも、転職活動真っ最中のひとも、第二・第三の人生をスタートさせているひとも、子育て中のひとも、
少しでも共感してくれて、この長い長い文章をここまで読んでくださったあなたに、
これからメルマガで、少しずつシェアしていこうと思います。
そして、このメルマガをただの配信で終わらせるのでなく、
同じような感性を持つ仲間がつながれる「場」にして、
そんなコミュニティとしてメルマガ自体を機能させていきたいと思っています。
このメルマガが、そんなあなたの「居場所」になれたら、うれしいです。
「生きててよかった」って思える瞬間、足りてますか?
この質問に、
「バッチリ。今日も自分の人生生きた。超〜〜しあわせ」
って言えるひとは多くないと思います。
でも同時に、この質問に「No」と答えて平気な顔をしていられるひとも、
もうここにはいないと思います。
もしも今、なんとなくでもあなたが共感し興味を持ってくださっているのなら、
今がほんの少しでもやわらかく
ほのかに明るく、色鮮やかな世界へ
一歩を進める瞬間になることを祈っています。